2023年2月に、すみだ史談会で研究発表した際の資料に加筆修正したものです。
「曳舟川はいつ消えた?」2023.4.21ver.(PDF)
今後も適宜加筆していく予定です。
投稿日時 2023.04.10 22:30
最終更新 2023.04.21
「曳舟川はいつ消えた?」2023.4.21ver.(PDF)
今後も適宜加筆していく予定です。
投稿日時 2023.04.10 22:30
最終更新 2023.04.21
| 水路名 | 別名・旧名 | 備考 |
| 六間堀 | 六間堀川 | |
| 五間堀 | 五間堀川 瓢箪堀 徳川堀等 | |
| 横網町入堀 | 横網御蔵堀 両国川 | 現在の国技館の北部を流れた。 |
| 烏帽子堀 | 横網町入堀の北部。文政年間に囲米として備蓄していた籾を摺り立てた際の籾殻で埋まってしまったとされる(「本所御蔵跡・陸軍被服廠跡」150頁)。 | |
| 御竹蔵大溝 | 御蔵大溝 大溝 | 本所御蔵(御竹蔵)を囲んだ水路。 本所七不思議「置いてけ堀」の舞台とも。 |
| 北割下水 | 本所北割下水 | 現在の春日通りのうち、本所2丁目の中ほどから大横川の間。 東北割下水を含めて北割下水ともいう。 |
| 東北割下水 | 柳島堀 | 現在の春日通りのうち、大横川と横十間川の間。 広義の北割下水に含まれる。 |
| 南割下水 | 本所割下水 本所南割下水 | 現在の北斎通りのうち、清澄通りと大横川の間。 錦糸堀を含めて南割下水ともいう。 |
| 錦糸堀(割下水) | 東中割下水 金糸堀 | 現在の北斎通りのうち、大横川と横十間川の間。 広義の南割下水に含まれる。 本所七不思議「置いてけ堀」の舞台とも。 |
| 錦糸堀(貯木場) | 割下水の南。 錦糸町貨物駅に接続していた。 | |
| 斎藤堀 | 東南割下水 菊川堀 | 現在の新大橋通り。 |
| 英堀(仮) | 大横川から東へ入る入堀。現在のJR線路敷付近。 英橋が架かっていた。 | |
| 用水堀 | 蔵前橋通りの1本北の道(太平2丁目〜4丁目の途中)。 | |
| 藤代町入堀 | 片葉堀 | 本所七不思議「片葉の葦」の舞台。 隅田川から回向院方向へ入る入堀。 途中で屈曲し、回向院北側の大下水に接続していた。 |
| 石原町入堀 | 梅堀 本所梅堀 埋堀 | 隅田川から東へ入る入堀。 現在の横網2丁目11番地、12番地付近。 今も不規則な街並みが残っているので、分かりやすい。 |
| 楓川 | 紅葉川 | 大横川のすぐ西を南へ流れた。 |
| 菊川 | 楓川の南側。 竪川と小名木川の間。 竪川開削前は、楓川と菊川は一本の大きな川だったと思われる。 | |
| 堺川 | 境川 | 竪川のすぐ南を流れた。 本所と深川の境界。 |
| 山名堀(仮) | 貯木池 | 大横川の入堀。 山名橋・新山名橋が架かっていた。 |
| 堺堀 | 大横川の入堀。 堺橋が架かっていた。 | |
| 太平町入堀(仮) | ||
| 業平町入堀(仮) | ||
| 押上町入堀(仮) | ||
| 新小梅町入堀(仮) | ||
| 正三堀 | 小三堀 蘆沼(?) | 本所表町 最勝寺・本久寺の裏。 |
| 鎌洗川 | 本所中之郷竹町にあった。 | |
| 道三堀 | 本所中之郷竹町にあった。 | |
| 古川 | 請地古川 古川堀 銅像堀 | 本所区と向島区の境界。 銅像堀という名は墨堤以西。 |
| 曳舟川 | 本所上水 亀有上水 白堀上水 古上水 小梅古上水 | |
| 西井堀 | 曳舟川の支流で、葛飾区側から南流していた。 墨田区内ではこの名称で呼ばれていなかった可能性がある。 |
| 水路名 | 別名・旧名 | 備考 |
| 隅田川 | 大川 浅草川 宮戸川 荒川 両国川 | |
| 竪川 | 竪堀 | 大横川以東は埋め立てられた。 |
| 大横川 | 横川 横堀 | 竪川以北は埋め立てられた。 |
| 横十間川 | 天神川 十間川 横川 | |
| 北十間川 | 源森川 | 源森川という名は大横川以西。 |

墨水其源出于秩父郡木賊谷合細流為荒川蜿蜒注九郡末會綾鷦始得斯名矣古昔東海之驛道以水界武総在五中將
墨隄植櫻之碑
寄懐乎渡口白鷗詠以國詩所謂都鳥之篇是也自徳川氏建覇府地属射獵之囿其隄經隅田寺島須小梅四村至枕橋長
二千一百餘間本曰葛西陂俗稱大隄甞置行殿於木母寺以寺北關屋里為游覽之場嚴有公擇櫻種於常州櫻川植之隄上
盖偕樂之遠慮而植櫻之權輿也享保二年有徳公又蓺一百株於隄上及渡口古道十一年植櫻桃柳各百五十本榜示以禁
剪伐且分種其萌蘗令勿廢絶歳給金若干永錢若干以充培植看護之資隅田村里正阪田氏世掌之亦見公保護祖宗遺愛
之一端焉而當時所植以隅田為限矣鄒以降世運極盛闔郷之農以種樹為業故其工寖資民力文化中寺島花戸佐原鞠
隖與朝川黙翁中山卜鄰謀蓺重瓣櫻百五十本於白髭祠南北天保二年阪田三七郎分種二百餘株於寺島須崎小梅三村
弘化三年洪水壊隄須崎花戸宇田川總兵衛幹修築為破產因憤慨植百五十樹以表其蹟長命寺畔合拱交陰者即是也安
政元年三七郎又分二百株繇是列植始連三圍祠上明治維新之七年小梅村人晉永機合衆力以蓺其村疆十三年舊水戸
藩知事徳川氏種其邸前至是列植遂達枕橋十四年寺島村人又補其闕而維新後之工不殖其半或因栽插不得候耶凡花
之性難保久且因境土之侶犖薄而有壽夭之別隄上無林丘擁護而接壤闤闠當郷路之衝平時来往之絡繹風日沙塵之
觸擊根幹為受其害與夫山陬幽蹊全其天者逈異以故櫻之受年大抵與人壽齊至重瓣則又半單瓣苟蓺植之不繼焉有數
而歸盡矣大倉喜八郎築居隄外裴回顧瞻有所興感乃語成島柳北曰隄櫻是居民所魄憤挂深壼竸既盡新栽亦不多殖
傷萎者摧折者或遺蘗或枯朽者比比有之不豫程補植之工則後必損勝區之譽某不敏敢當其任願與先生謀之柳北曰噫
美矣哉此舉請子督其工我則募同志先是墨上同人結一社詩酒徴逐命曰白鷗社大倉成島二氏即其社友也於是告同社
曁郷黨躾予委〔然應之南葛飾郡長伊志田君友方申之府知事而樹蓺亟就功其度長隄而栽培者計一千株時十六年
冬十月也吾寄老墨上每値花時冠蓋相望遊屐累至人士女繁絃醉歌驩謼狂舞水隈為震顧視木母寺行殿之址豐艸芊
緜不詳其所而櫻樹之培植逐年而益盛永傳甘棠之遺芳與芳野嵐山並名遂為 帝亰苑囿之域中將之詠盖為之兆耶抑
亦花之榮也哉曩柳北欲勒工事於石不果而逝其友人安田善次郎謀之喜八郎曁川崎八右衛門俱捐貲以成其志村人聞
有此舉自奮任力役而不受僱直余乃徴辯儺及古老紀植櫻顚末以竢後之繼工者云
明治二十年丁亥歲夏五月 梁川榎本武揚篆額 濱邨大澥撰文幷書 宮龜年刻字
異体字については、標準字体等で代用した箇所がある
是碑舊在距此西三十武之堤畔河水漲溢
激岸壊堤礎石日傾將有顚覆之患本所區
長飯島保篤甞憂之今茲明治二十九年三
月與大倉安田川崎三氏相謀卜地於此移
以加脩補於是礎石堅牢足以竢後之継工
者矣子爵榎本武楊小野義真二氏亦投金
若干以賛此擧云
明治二十九年八月
異体字については、標準字体等で代用した箇所がある
墨隄植櫻之碑
―東京市本所向島須崎町長命寺上.土手筋―
墨水其源出于秩父郡木賊谷合細流爲荒川蜿蜒注九郡末會綾鷦始得斯名矣古昔東海之驛道以水界武總在五中將寄懷乎渡口白鷗詠以國詩所謂都鳥之篇是也自川氏建覇府地属射獵之囿其隄經隅田寺島須崎小梅四村至枕橋長二千一百餘間本曰葛西陂俗稱大隄甞置行殿於木母寺以寺北關屋里爲游覽之場嚴有公擇櫻種於常州櫻川植之隄上盖偕樂之遠慮而植櫻之權輿也享保二年有公又藝一百株於隄上及渡口古道十一年植櫻桃柳各百五十本榜示以禁剪伐且分種其萌蘗令勿廢絕歲給金若干永錢若干以充培植看護之資隅田村里正阪田氏世掌之亦見公保護祖宗遺愛之一端焉而當時所植以隅田爲限矣鄒以降世運極盛闔之農以種樹爲業故其工寢資民力文化中寺島花戶佐原鞠隖與朝川默翁中山卜隣謀藝重瓣櫻百五十本於白髭祠南北天保二年阪田三七分種二百餘株於寺島須崎小梅三村弘化三年洪水壞隄須崎花戶宇田川總兵衛幹修築爲破產因憤慨植百五十樹以表其蹟長命寺畔合拱交陰者即是也安政元年三七郎又分二百株繇是列植始連三圍祠上明治維新之七年小梅村人晉永機合衆力以藝其村疆十三年舊水戶藩知事川氏種其邸前至是列植遂達枕橋十四年寺島村人又補其關而維新後之工不殖其半或因栽插不得候耶凡花之性難保久且因境土之間劇厚薄而有壽夭之別隄上無林丘擁護而接壤闤闠當路之衝平時來徃之絡繹風日沙塵之觸擊根幹爲受其害夫山陬幽蹊全其天者逈異以故櫻之受年大抵與人壽齊至重瓣則又半單瓣苟藝植之不繼焉有數而歸盡大倉喜八築居隄外裴回顧瞻有所興感乃語成島柳北曰隄櫻是居民所魄圃命者舊植既盡新栽亦不多殖傷萎者摧折者或遺蘗或枯朽者比比有之不豫程補植之工則後必損勝區之譽某不敏敢當其任願與先生謀之柳北曰噫美矣哉此擧請子督其工我則募同志先是墨上同人結一社詩酒徵逐命曰白鷗社大倉成島二氏即其社友也於是吿同社曁黨躾予委〔然應之南葛飾郡長伊志田君友方申之府知事而樹藝亟就功其度長隄而栽培者計一千株時十六年冬十月也吾寄老墨上每値花時冠蓋相望遊屐累至人士女繁絃醉歌驩呼狂舞水隈爲震顧視木母寺行殿之址豐艸芊緜不詳其所而櫻樹之培植逐年而裟恒変4怒之遺芳與芳野嵐山並名遂爲 帝京苑囿之域中將之詠盖爲之兆耶抑亦花之榮也哉曩柳北欲勒工事於石不果而逝其友人安田善次謀之喜八曁川崎八右衛門俱捐貲以成其志村人聞此擧自奮任力役而不受僱直余乃徵辯儺及古老紀植櫻顚末以竢後之繼工者云
墨隄植櫻之碑
明治二十年丁亥歲夏五月 梁川榎本武揚篆額 濱邨大澥撰文幷書 宮龜年刻字
『是碑舊在距此西三十武之堤畔河水漲溢激岸壞堤礎石日傾將有顚覆之患本所區長榲臺歹那獲之今茲明治二十九年三月與大倉安田川崎三氏相謀卜地於此移以加脩補於是礎石堅牢足以竢後之繼工者矣子爵榎本武楊小野義眞二氏亦投金若干以賛此擧云 明治二十九年八月』後面下部
墨堤植桜の碑
所在 墨田区向島五丁目一番 隅田公園
この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の
撰文、宮亀年の彫刻です。
墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、
享保ニ年(一七一七)に八代将軍吉宗が百本の桜を、同十一年には桜、桃、
柳各百五十本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。
その後文化年間に佐原鞠塢、朝川黙翁、中山ト鄰が百五十本、天保ニ年(一
八三一)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。弘化三年(一八四六)
洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを
顕彰して村人が百五十本、安政元年(一八五四)に阪田三七郎が二百株、
明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鷗社を設立、村人もこれに
応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。
志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎
八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
このような功績を永世に伝えるため、明治二十年に建碑されましたが、後に
堤が壊れ碑が傾いたので、明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川
崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
平成ニ年三月
墨田区
異体字については、標準字体等で代用した箇所がある