この記事は、少しずつ加筆・修正して、内容をさらに充実させていく予定です。
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功利主義の提唱者:ベンサム(Jeremy Bentham, 1748-1832)
ベンサムの主著:『道徳および立法の諸原理序説』〔1789年〕

ベンサム
ジェレミー・ベンサム



◎簡単に言えば、
功利主義最大幸福原理=「社会の幸福が最大になるように行為すべきだ」という考え方。



〓〓〓 古典的功利主義の2要素 〓〓〓

(1)「最大」=社会全体の合計値が最も大きくなること
社会全体の合計値のみに着目し、
社会における分配状況には着目しない(経済格差<それ自体>は、気にしない)

(2)「幸福」=快楽−苦痛 (快楽説 byベンサム)
幸福のみに着目し、
自由や平等それ自体には着目しない(自由や平等<それ自体>には、価値がないと考える)


 よくある疑問
 合計値しか考えず、格差を考慮しないなら、
 <Aさんの幸福値50+Bさんの幸福値50=合計幸福値100>の社会よりも、
 <Aさんの幸福値100+Bさんの幸福値1=合計幸福値101>の社会の方が、望ましいことになる。
 だが、このような社会はあまりに不公平・不公正ではないか?
 功利主義は、「公平・公正」という価値を無視した、欠陥のある考え方ではないだろうか?

 功利主義者の回答
 たしかに、功利主義では幸福値の合計が少しでも大きい方が「よい社会」とされる。
 だから、一見、功利主義は<Aさん100+Bさん1=合計101>の社会を目指しているように思える。
 しかし、実際には、Bさんの幸福値を減らす以上に、Aさんの幸福値が増えることはない。
 <Aさん50+Bさん50=合計100>の社会をベースに、そこからBさんの幸福値を49削ったとき、
 削った以上にAさんの幸福値が増えることはないのである。
 その根拠はいろいろあるが、一つの根拠が「限界効用逓減の法則」(詳しくは後述)
 それからすると、<Aさん100+Bさん1=合計101>になるような社会は、実際にはあり得ない。
 Bさんの幸福値を1まで削ったとしても、Aさんの幸福値はせいぜい60くらいにしかならないから、
 <Aさん60+Bさん1=合計61>となる。
 このように合計値が小さくなるから、こういう社会は、功利主義的にも「よくない社会」である。
 したがって、功利主義においても、不公平・不公正な社会は認められない

 なお、こうした功利主義者の反論をもってしても、功利主義の欠陥は依然存在すると考える人々もいる。
 この欠陥を是正しようと考え出されたのが、ロールズの正義論である(【概説・法哲学#010】で解説予定)。


〓〓〓 「功利」とは? 〓〓〓

功利効用(utility)とは、(物や制度<それ自体>の価値ではなく、)物や制度が人間にもたらす価値のこと。
ベンサムの快楽説で言えば、物や制度が人間にもたらす快楽のこと。

つまり、功利主義によれば、
漫画本という物の価値は、人間にどれだけの効用(快楽)を与えるかで測られ、
民主主義という制度の価値も、人間にどれだけの効用(快楽)を与えるかで測られる。
漫画本<それ自体>や、民主主義<それ自体>に価値があるとは考えない。

(細かい話は抜きに)もっと分かりやすく言うと…
たとえば、道に迷って困っている人を見つけたとき、声をかけて道順を教えてあげるのは、
通常の感覚からは<良いこと>のように思うかもしれないが、功利主義はそう考えない。

その理由は、こうだ。
功利主義は、「声をかけて道順を教えることで、困っている人がどれだけハッピーになるか?」で、
<良いこと>かどうかを判断する。
したがって、困っていた人が「道順が分かって、うれしー!!」と思うのであれば、
教えるという行為は、功利主義的に<良いこと>である。
しかし、もし道に迷っている人が極度の人間嫌いで、
「見知らぬ人から声をかけられるくらいなら、道が分からないほうがずーっとマシだ」という人だったとしたら、
教えるという行為は、<悪いこと>である、と功利主義は考えるのだ。

つまり、「教えてあげる」ということ自体に価値があると考えるのではなく、「教えてあげる」ことで効用(快楽=ハッピー)が増えるものだけに価値を見出すのが、功利主義なのである。

学校の道徳の授業なんかでは、
「道に迷っている人がいたら、教えてあげましょう。それはとても良いことです」
と習うかもしれないが、
功利主義は
「道に迷っている人に道を教えてあげて、もしもその人が喜ぶのなら、教えてあげるのは良いことだ」
と考えるのだ。


〓〓量的快楽・質的快楽〓〓

量的快楽説 byベンサム
快楽は、その強度や持続性などを指標にして量的に計測できる。

質的快楽説 byジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)
快楽には、質的な差がある。
肉体的快楽よりも、精神的快楽の方が質が高い。
───満足した豚であるより、不満足な人間であるほうが良い。
    満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうが良い。───

                           『功利主義論』〔1861年〕
ミル
ジョン・スチュアート・ミル


〓〓〓 現代功利主義の3要素 〓〓〓
現代では、功利主義を、帰結・厚生・総和の3要素から成り立つものと理解している。
古典的功利主義と比べると、「帰結」要素が追加されている。

(1)帰結主義
行為を評価する際、行為の帰結(結果)のみに着目。

 cf. 義務論
 帰結主義と対立する概念。
 (行為を評価する際、行為の帰結には着目せず)その行為が道徳的義務や法的義務に合致しているかに着目。

  ex. 遅刻
  ・帰結主義の場合(功利主義はこっち)
   遅刻の結果、相手に迷惑をかけた → 遅刻は悪いこと
   相手も遅刻したので、相手に迷惑をかけなかった → 遅刻は悪いことではない

  ・義務論の場合
   「時間(約束)を遵守する義務」に反しているので、遅刻は悪いこと
   相手に迷惑がかかろうと、かかるまいと、義務違反であるので、遅刻は悪いこと


(2)厚生主義(別名:幸福主義
個人の福利・厚生・幸福にのみ着目。

 ex.ある都市の生活レベルの調査
 平均所得、資産、余暇、公園の面積、水道普及率etc...に、厚生主義は着目しない。
 厚生主義が着目するのは、人々の福利・厚生(市民の生活満足度)
 所得や資産などは、それが人々の厚生に影響を与える限りでしか、意味をもたない。
 厚生だけが重要であり、他の要素は二次的、副次的。

 ★「個人の福利・厚生」とは?
 ・快楽説(快楽功利主義)=基数的(現在は少数説)
  快楽の強度・持続性が大きいほど、厚生の度合いが大きいと考える説。

 ・選好充足説(選好功利主義)=序数的(現在は多数説)
  2つの選択肢のうちの一方を望んでいるとき、その望みが叶っていることを厚生と考える説。
  つまり、選択肢の一方を選好していて、その選好が充足していることを厚生と捉える。

  快楽説と選好充足説はどう違うのか。
  快楽説は、あらゆる厚生の度合いを数値化できると考える。
  だから、厚生同士の足し算・引き算もできる、ということになる。
  選好充足説は、数値化するのは難しいが、どちらが望ましいかは判断できると考える。
  だから、複数の選択肢の間で、順位がつけられる、ということになる。

  選好充足説が多数説だが、選好充足をそのまま徹底すると問題がおきる。
  適応的選好の問題や、愚かな選好の問題 →後述(快楽説の問題点についても後述)


(3)総和主義
合計の大きさにのみ着目。
合計値が最大になる選択肢が、最善の選択肢となる。

 ex.国の豊かさをGDP(国内総生産)で測る
 生産額の総和のみに着目し、どのように分配されているか(分配されるべきか)には着目しない。

  ※ただし、後述の「功利主義の魅力best5」で述べるように、
   功利主義は限界効用逓減の法則から、平等である方が総和が大きくなると考える点に注意。
   功利主義は、平等<それ自体>に価値を認めているわけではないが、
   合計値を最大にするために、平等に価値を見出す。


以上をまとめると、現代功利主義とは、

 ある行為が≪結果≫として(帰結主義)
 人々の≪厚生≫に与える影響を集計し(厚生主義)
 それを≪最大化≫する行為が正しい(総和主義)と捉える考え方


と言える。


〓〓〓 功利主義の魅力best5 〓〓〓

(1)非-利己主義
功利主義は、利己主義を超える(功利主義は、利己主義と正反対の考え方である)

 利己主義…自己の幸福を最大化する

 功利主義…社会全体の幸福を最大化する

 ※多くの功利主義者は、「社会全体の幸福」を、
  「人間社会の幸福」に限らず、「動物の幸福(快苦)」まで含めて考える。
  その意味で、功利主義は、人間中心主義を超える。


(2)単純明快

功利主義は単純明快。
人間は、様々な現象を単純な一つの原理で表せることに美しさを感じる(ことがある)
例えば、ピケティ教授が提唱した r > g という単純な数式に美しさを感じるように。
例えば、アインシュタインが説いた、E = mc2 という単純な数式に美的訴求力があるように。

また、単純な原理のため、社会のあらゆる問題に明快な解答を与えることができるという魅力もある。


(3)自由
功利主義は、個人の自由を尊重する(反対に、功利主義は、全体主義を嫌う)

(功利主義の3要素のうちの)厚生主義が目指すのは、その人自身の観点からの幸福である。
道徳的観点や、常識的観点は考慮しない。
道徳的に問題があっても、非常識であっても、本人が幸福に感じれば、功利主義はそれを「善いこと」と見做す。

つまり、功利主義は、幸福の自己決定(自分にとって何が幸福かを、自分が決定すること)を肯定する。


(4)平等
功利主義は、平等を要求し、または、正当化する。

 (i)平等算入公準
  身分・階級・性などにかかわらず、全ての人の厚生が等しく算入される。
   ∴普通選挙や婦人参政権を正当化する

 (ii)限界効用逓減の法則
  モノやサービスから得る厚生の効果(効用)は、独占するよりも、
  多くの人で分け合った方が大きくなる。
   ∴所得再分配を正当化する
    ex.1杯目のビールの効用が「10」、2杯目は「7」、3杯目は「5」とする(1杯目が一番旨い)
      1人で3杯飲むと、効用の合計は10+7+5=22だが、
      3人で1杯ずつ飲むと、全員が1杯目の効用を得るので、効用の合計は10+10+10=30。


(5)反直観性
社会の中に差別的直観が蔓延しているとき、
直観に依拠しない功利主義は、直観とは独立した評価基準を提示することができる。
社会の現状を批判し、それを改善するための武器となる。

「功利主義者が主張することは、往々にして直観に反する(だから誤りだ)」というよくある批判は、
それだけでは批判になっていない。
 ∵この批判の前提には、「直観に合致するものが善く、合致しないものは悪い」という考えがある。
  この前提からすれば、功利主義は誤りである、と結論づけるのであるが、
  この論理構成は、いわゆる論点先取のびゅうであり、論証になっていない。
  「直観は正しい」ということを論証せずに、一方的に前提にしてしまっているのである。

このよくある批判を、意味のある批判にするためには、
「直観に合致するものが善い」といえる根拠、その前提を採らなければいけない理由を
説得的に提示しなければならない。




〜ここまでが功利主義の基本事項です。
 この先は、もっと詳しく功利主義について知りたい人向けです〜






〓〓〓 功利主義批判と、それに基づく修正案 〓〓〓

功利主義にはこれまで多くの批判が寄せられてきたが、
それを克服すべく功利主義は理論を修正し、深化させてきた。

 ex.快楽説の問題点を突かれた → 選好充足説を提唱し、理論を修正

以下では、帰結主義、厚生主義、総和主義それぞれに関する問題提起と、
それを克服すべく出された修正案を概説する。

なお、自由主義に様々なタイプがあるのと同様に、
功利主義にも論者によって様々なタイプが提唱されている。
以下でとりあげる各修正案は、
必ずしも功利主義者全員の一致した見解ではないということに注意されたい。


(1)帰結主義に関する問題

 (i)間接功利主義
  常に社会の幸福を考えて行動することを要求する功利主義者もいる(直接功利主義)

   ex.初期のゴドウィン(William Godwin, 1756-1836)『政治的正義』〔初版:1793年〕

  しかしそれは、現実にはかなり難しい。
  明日の朝、自分は何時何分何秒に起きれば、社会の幸福が最大になるか、
  無限にある献立の中から、朝食で何を摂れば、社会の幸福が最大になるか、
  無数にある服装のうち、どれを選べば、社会の幸福が最大になるか、
  などとひとつひとつ考えていたら、日が暮れてしまい、何も行動できない。
  それは「結果」からすると、不幸である(幸福度が減るという「帰結」をもたらす)

  功利主義は、帰結主義の一形態である。
  帰結主義とは、結果(帰結)を重視する考え方である。
  素晴らしい動機・目的で行ったことでも、結果が悪ければ、
  帰結主義からすると、その行為は「悪い」行為とされる。

   ex.患者の病気を治そうと手術を行った:行為の「動機」は良い
   手術がうまくいかず、死なせてしまった:行為の「結果」は悪い
    ⇒功利主義では、結果の善し悪しが重要なので、この手術行為は悪い行為であると判断される

  このように、帰結主義は、
  社会の幸福を最大化しようという「動機」や「目的」には、重きを置かない。
  むしろ、社会の幸福を最大化していないという「結果(帰結)を重視する。

  そこで、功利主義者の多数は、この帰結主義の観点から、
  行動の評価基準としてのみ功利主義を用い、
  行動の決定手続には功利主義を用いない方が良いと考える(間接功利主義)

  すなわち、ある行動が良いか悪いかの評価・判断をする際には、功利主義を用いるけれども、
  どの行為をしようか、と一人一人が決定する際には、功利主義を使うべきではないと考えるのだ。

  各人の行動からもたらされる結果が、功利主義の観点から望ましいものであるならば、
  (直接功利主義者のように)功利計算の結果としてその行動を選んだ、というわけではなく、
  誰かに命令されてやったことでも、
  ほとんど無意識のうちにやったことでも、
  よこしまな動機からやったことでも、構わない。
  むしろ、いちいち功利計算をすると、かえって悪い結果をもたらすから、すべきでないと考える。

  これが間接功利主義の立場である(多数説)
  こう考えることで、多数説は、「毎回、功利計算するのは非現実的だ」という批判をかわしている。



(2)厚生主義に関する問題

 (i)快楽説への批判 part1 消極的功利主義
  快楽説(快楽功利主義)は、
  <快楽がより多く、苦痛がより少ない状態が、より幸福な状態>、
  <「快楽の量−苦痛の量」が最大=最も良い状態>と考える。
  しかし、<快楽と苦痛は、同一直線上のプラスとマイナスである>と考えることは妥当ではない。
  人が何に快楽を感じるかは多種多様だが、人が何に苦痛を感じるかは相当程度共通している。
  それゆえ、快楽の量を増やすより苦痛の量を減らす方が、ずっと容易でありコストがかからない。
  したがって、苦痛の最小化を目指すべきである消極的功利主義、「最小不幸社会」)
  なお、消極的功利主義と対比するとき、快楽説を積極的功利主義と呼ぶことがある。

   ↓消極的功利主義を唱えたカール・ライムント・ポパー
   『開かれた社会とその敵 第1部』〔未來社、1980年〕
   ※英語版(閲覧無料)

 (ii)快楽説への批判 part2 選好充足説
  選好充足説(選好功利主義)は、快楽説を次の3つの点で批判する。

  [1]自他の効用比較は困難
  自分の効用(快楽)ならば、快楽を比較できるかもしれないが、
  自分と他者の快楽を比較するのは、難しい。

   ex.コンサートのチケットが1枚余っている。
   友人A、B、Cのうち、最も快楽を受ける人にあげようと思うが、どうやって調べるか。
   快楽の大きさを100点満点で自己申告してもらう、というのは上手くいかない。
   第一に、正しい数値を申告するとは限らない。
   第二に、全員正直者であったとしても、快楽のものさしが人によって違うので比べようがない。
   たとえば、快楽を感じやすく、快楽の最大値が大きい人の100点(本人にとっての100%)と、
   快楽を感じにくく、快楽の最大値が小さい人の100点(本人にとっての100%)では、
   前者の100点の方が快楽は大きいが、誰が快楽を感じやすいのかを正確に調べるのは難しい。

  [2]効用の数値化は困難
  そもそも、効用(快楽)を数値化することは難しい。

   ex.休みの日に、
   疲れをとるために家でゴロゴロするか、
   少しきついが早起きして海釣りに出かけるか、
   お金はかかるが、映画館で新作の映画を見たあと、贔屓の鰻屋で蒲焼きを食べるか、
   スキルアップのため、資格の勉強を進めるか、
   色々な選択肢の一つ一つにそれぞれ点数をつけることは簡単ではない。

  [3]人は必ずしも快楽を望むわけではない


 (iii)厚生主義自体への批判 事実判断と価値判断の混同
  <人間は、快楽を望んでいる>という事実判断がかりに正しいとしても、
  <快楽は望ましいものである>という価値判断を導くことはできない(快楽説を批判)
  同じく、<ある選択肢を選好している>という事実があったとしても、
  <その選好は望ましいものである>かどうかとは無関係である(選好充足説を批判)

  ↓この点でミルの快楽説を批判する岩崎武雄
  岩崎武雄『正しく考えるために』〔講談社現代新書、1972年〕93-97頁



(3)総和主義に関する問題



◆参考文献◆ ―さらに学びたい方へ―
瀧川裕英・宇佐美誠・大屋雄裕『法哲学』〔有斐閣、2014年〕3‐30頁


児玉聡『功利主義入門』〔ちくま新書、2012年〕

児玉聡『功利と直観―英米倫理思想史入門』〔勁草書房、2010年〕


安藤馨『統治と功利』〔勁草書房、2007年〕